おじさんが亡くなった

名古屋のおじさんが金曜の夜に亡くなったと母からメールがきていて、弔電を打ちに郵便局まで行ってきた。こういうときなんと言ったらいいのかわからないのだが、レタックスの見本の文章がいろいろ用意されていて、その中から「在りし日の面影を偲びご冥福を心からお祈り申し上げます」とかいうのを選んだ。
名古屋に行かなければならないのかもしれないが、実家から「遠い人はいい」とメールがあったので電報に託した。
身近な人が亡くなると、自分もそんな年齢に(人が亡くなるのを見送る年齢、って意味)になったんか、と思うが、考えて見ると私がよほど長生きな人でかぎり、もう半分は生きたかもしれない。昔は人生50年とか言ったらしいがそれってどういう意味だったんだろう。寿命が短かったから50年で終わり、なのか50年でほとんどが決まるってことか、それなら私はあと何年かでほとんどもうちゃんとしてなきゃいけないんだけど、山あり谷ありでも、全く山頂が見えず、今は谷底を淡々と歩かなきゃいけない状態。
頂上に登りきって下る一方、というのでないのは言えてるけど、どのルートを歩こうと、そこを楽しめるほうがいいなあ。
事故に遭い、自分はどうなっちゃうんだろう、と不安だったが、友達に会うたび、「あったかくなればよくなるよ!」とか「今寒いから、誰だって冬眠してるよ、春になれば走れるよ」と言ってくれるので、自分ではわからないけど人から見たらそう見えるのかなと、次にやってくるルートを信じて行くしかない。
からださえ元気になればすごく見通しがいい(単純な)自分なのだけどね。